
茅野市出身の建築家・藤森照信さんが設計した一棟貸しの宿「小泊Fuji」。オープンして四季が二巡したこの夏、噂の宿を訪ねた。(取材は2025年夏)
長野県側から富士山が見える町の田園風景を走り、カーブを曲がる。ふいに目に飛び込んできたのは、小高い丘の上に建つ黒い外壁の家。白いアプローチを登ると、繰り返し思い描いていた景色の一部になる感慨が押し寄せる。
この建物は、建築家・藤森照信さんの作品に惚れ込んだ山越典子さんが、13年かけて実現した宿だ。藤森さんへの依頼は、住む場所も仕事も変えながら続けた。「諦めずにがんばったのではなく、ただやめなかったんです」。移住者が増え、いい土地が出てきづらくなっていた富士見町で、今でも藤森さんから「よくこんな土地が見つかったね」と言われるとっておきの場所と出会い、長い時間をかけた夢への扉が開いた。
見知らぬ扉を開く高揚感と発見

手で削った跡をわざと残した栗材の扉を開ける。休息のためだけに設えられた空間が広がり、こわばっていた心身がみるみるほぐれていくのを感じる。
初めて訪れる旅先は、高揚感とほんの少しの不安が入り混じる。八ヶ岳の旅はまず、パノラミックな眺望に心奪われる。続いて豊かな自然、初めての味覚に五感が目覚め、無数の発見がひそんでいることに気づく。
小泊Fujiの建物のアーチを抜けて駐車場に車を停めると、目の前いっぱいに甲斐駒ヶ岳が広がる。まるで異世界へのトンネルをくぐったような気持ちになった。
振り返って建物に目をやると、藤森さんが好んで使う黒くマットな焼杉と漆喰の白壁の対比に見とれる。屋根の上には豆桜の異名もある富士桜が10本、一直線に並ぶ。屋根の銅板は、風雨にさらされ早くも鈍色を放つ。煙突の下には土でできた小さな穴があり、ここを守る精霊の棲み処かもしれないと想像が膨らむ。他にどこにもない建物は、全体から細部まで心躍る発見に満ちている。



銅板と草屋根
屋根の銅板は、クラウドファンディングのリターンとして、のべ150人の参加者がワークショップで叩いて曲げた。草屋根の桜の列は、延長線上に里山を見守ってきた樹齢 300年の枝垂桜が位置し、この土地への敬意が伺える。
非日常の絶景の中で、日常を暮らす喜び
八ヶ岳山麓は、山に囲まれているのに不思議と明るく抜けがよい場所が多い。小泊Fujiも そんな気持ちのいいところにある。細長い建物は、田んぼの海原に浮かぶ船。甲板のように張り出したバルコニーに出れば、南アルプスを一望でき、天気に恵まれれば南側には富士山も見える。稲穂を波打たせる風に吹かれると、港を表わす「泊」という言葉通り、外海の荒波から逃れて小さな港で休む安寧を感じる。
小泊Fujiの設計について山越さんが藤森さんへ出したオーダーは「1日1組」「定員は5〜8名」「お風呂とトイレは欲しい」の3点のみ。結果、小さなおうちのような宿ができた。宿という非日常の空間ではあるが、こんな家に住んだら世界の見え方も、人生も変わるかもしれない。

「藤森建築はファン層が広いので、富裕層向けに特化した宿にはしていません。お子さん連れの方のために、子ども料金も設定しています」と山越さんは言う。この絶景は、子どもにとっても忘れられない思い出になるはず。
風と土の匂い、野の音を感じて過ごす
窓を開けて過ごしていると、風が土や草のにおいを運んできて、森や生き物が発する音も聞こえてくる。豊かな自然の中にある場所だからこそできる体験だが、いつもの暮らしの中でも自然をもっと身近に感じられたら、暮らしはさらに素敵になる――。「こんな風に暮らしたい」という理想をリマインドしてくれるのも、旅の良さだ。
客室はロフトとテラスのある「リビング棟」、リビング棟から通路を挟んで向かい側の「寝室棟」、食材や雑貨が購入できる「パントリーストア」で構成されている。室内は白い壁と栗材を使った家具や建具で統一されており、細部に至るまで心地よさと遊び心が追求されている。
リビングの階段下には壁と一体となった暖炉があり、寒い時期は火を見ながら過ごす楽しみが加わる。バルコニー側が少し細くなっているテーブルは、田園風景に突き出す建物に呼応した意匠を感じさせつつ、出入りのしやすさという実用性も兼ね備える。

ベッドルーム天井には、開業から2024 年夏までの宿泊者が貼った炭が。再訪したお客さまは、当時の写真と見比べながら自分が貼った炭探しを楽しむ。 完成を急がないという山越さんの思いや、藤森さんの「建築は誰にでも関われる仕事があるから面白い」という考えを象徴する。

寝室棟とリビング棟
寝室棟に3名、リビング棟に2名泊まれる。ロールスクリーンの引き手、キッチンの引き出し、水彩画のような照明と心奪われるポイントは無数にある。ルームウェアは、アパレル業界で働いたこともある山越さんが企画したオリジナル。
確かな食の哲学のもと頂く、大地の恵み
過去にリトリート施設「穂高養生園」で働き、茅野で「おいしい家(や)」という玄米菜食の店を営み、今は「くらしまわり」の屋号で焼菓子などを製造する山越さんは、食べることにも人一倍熱心だ。しかし宿では食事を前面に押し出すことはしなかった。「旅に出ると、昼食も楽しみのひとつ。朝食を軽くしたい方にも対応できるように、オリジナルのグラノーラやパンケーキミックスなど最低限のものを用意しています。お客さまから甘くない朝食のリクエストもあり、『チルクス惣菜店』さんにお願いしてスープも加えました」。
夕食は、地元の直売所やパントリーストアに並ぶ食材やワインで仕立てるもよし、オプションの「しゃぶしゃぶセット」に舌鼓を打つもよし。食べることは楽しみだし大事だけれど、あくまでこの場に憩うためのピースのひとつ。食にも、暮らすように泊まる「小泊Fuji」の真髄が宿る 。

<一服が醸す時間>
ミニキッチンには茶道具が並ぶ。お茶をたてて一服すれば、時間の流れは緩み、濃密に感じられる。抹茶碗は小泊良さんの作。 宿の雰囲気にぴったりだと思い、山越さんがオーダーした。他のアイテムも、日常から離れてもらうために、なるべく一般家庭にないようなものを選んで置いている。



アプローチの途中にある三角形の田んぼは、今年が1年目。山越さん夫妻や友人でアキタコマチを植えた。「うまくいけば来年はコシヒカリを植えます」。「しゃぶしゃぶセット」は豚肉に地元の野菜数種、きのこ、薬味、塩ポン酢、ごまだれ、平飼い卵、地元の「桜米」(内容は季節によって変わる)。2〜3人前¥4,950、4〜5人前¥8,800。
20万年が結晶した、里山の夜に抱かれて眠る
灯ともし頃になれば、窓から漏れる暖かな光が青く沈む里山にひときわ映える。小泊Fujiは四季、空模様、そして一日の中のどの時間帯でも、それぞれの良さがあることを教えてくれる。刻々と変わり飽きないこの景色を見届けたい気持ちが湧きあがるためか、「1泊のお客さまが多いのですが、みなさん『1泊じゃ足りない』と仰います」。
20万年前の八ヶ岳大噴火でできた大地は、縄文人の暮らしを支え、悠久の時を経て今の景色をかたちづくっている。豊かに流れる清らかな水、山々に守られた冷涼で穏やかな気候、淀むことを知らない風。旅人にも、長い長い歴史をたたえた暮らしの一部に連なっていく瞬間が訪れる。

理想郷を探す旅は続く
「2023年8月20日に開業して、『どうやって運営していこう?』と悩みながら無我夢中で走りました。ようやくこの時期は忙しくなるとか、あの準備をしておくといいといった時間感覚がつかめるようになりました。今は細かいところの見直しをしています」。オープン以来取っているアンケートも、見直しに多々反映されている。
「庭もまだまだで、やりたいことはたくさんあります。『これで完成』ということは多分なくて、お客さまと、地元の方々と、この自然とともに、いつまでもつくり続けていく宿になると思います」。完成することのない理想郷は、訪れるたびに新たな変化と発見があるだろう。その変化と発見を携えて日常に戻れば、暮らしもまた変わっていく。旅と暮らしの往還は終わらない。

建物を背後から見下ろす位置にある草地にはベンチがひとつ置かれ、あとはよく手入れされた野芝が広がるのみ。 敷地内だがパブリックスペースとして地元の方々に開放されている。

里山全体が小泊Fujiの敷地かと見まがうような田園風景。田んぼの畔までもこまめに草刈りする地元の方々の手間と愛情が、この奇跡的な美観を生んでいる。
DATA
小泊Fuji
【エリア】長野・富士見町
【住所】長野県諏訪郡富士見町(詳細は予約後に連絡)
【営業時間】IN 15:00~17:00、OUT 10:00
【他】1日1組一棟貸し(定員5名)、
朝食付き(セルフサービス)
宿泊料金は基本料金+宿泊者分の料金
基本料金¥66,000〜
小学生未満:無料、小学生:¥3,300、
中学生:¥5,500、高校生以上:¥8,800
その他詳細はホームページをご確認ください
小泊Fuji 公式サイト(こちらをタップ)
小泊Fuji 公式Instagram(こちらをタップ)
この記事を取材した人
ライター 栗本京子
大分県出身。2016年に東京から長野県に移住してフリーランスに。台所・料理・食べることが三度の飯より好き。
カメラマン 阿部紗夕里
1987年神奈川県生まれ。美味しい水と野菜と自然がある場所に住みたいとの思いで、現在長野を拠点に活動。自然と人を繋げる写真を撮れないか模索中。









